きものQ&A

Q.おはしょりってなんの為にあるのですか?
A.女性のきものにだけあるお端折り(おはしょり)、着用が面倒になる元凶だとも思われていますが、実は着崩れ防止という意味があります。江戸時代中期に帯が装飾的な意味を持ち始め幅が広くなり、見た目のバランスをとるために小袖の丈が長くなりました。室内では裾を引きずって歩いていたのですが、外出時にはしごき(たぐり)で端折ってました。
 帯を結んでからおはしょりをとったので、現在とは逆ですね。


Q.キモノの仕立てにはどうしてあんなに時間がかかるんですか?
A.まずお買い上げいただいたキモノに家紋を入れるのに早くて3日、通常1週間ほどかかります。既製品の八卦(はっかけ)で合う色がなかった場合、別染めに4週間。防水もパールトン加工にしたら京都での作業になるので3週間程度。さらに当店でのお仕立ては完全手縫いなので早くて1週間かかります。都合約1〜2カ月ほどお待ちいただくことになります。もちろん急に必要な場合でしたら、できる限りご希望に添うよう努めております。
 ご寸法にキチンと合ったキモノは、着ていても楽で着崩れしません。きよべではお客様にあわせて正確に採寸させていただくことは勿論のこと、万一着にくかった場合は無料でお直しさせていただく「無料お仕立て直し券」をおつけしています。


Q.きものの裏地の八掛(はっかけ)にはなぜ無地とボカシがあるの?
A.八枚のパーツからなりたっているから八掛と名付けられたのです。が、実際は衿裏の一部にもつきますので十掛けですね。
 無地の八掛は紬や小紋に、ボカシの八掛は附下などのきものにつけることが多いのですが、きものの「格」の違いでそうしているのではなくって、薄色のきものに無地の八掛では裏うつりするからなのです。
基本的には無地の八掛を使います。ただ最近は無地八掛の生産量が減っているために色数が少ないので、ボカシで代用することがあります。
 無地の八掛がなぜ良いかというと、仕立直しのときにすれて弱くなった箇所や汚れたところを目立たない場所にくりまわせるからです。こんなところにもきものの合理的な面がでていますね。
 きよべではきものの洗張りや仕立直しも承っております。どうぞ遠慮なさらずにお電話ください。


Q.ゆかたはどうして素肌に着るのですか?
A.ゆかたはもともと湯帷子(ゆかたびら)といって、西洋で言うところのバスローブみたいなものでした。ですからあくまでもカジュアルなきものです。近年ゆかたにわざわざ重ね衿をつけてらっしゃる方をお見かけしますが、きものの格からいっても重ね衿はおかしいし、第一見た目が暑苦しいですね。
 ガーゼやクレープ素材のゆかた下を着用すれば、肌にまとわりつかず涼しいし、ゆかた下でしたら御自宅で洗えますよね。
 ゆかたは気楽に楽しんで粋に着こなして欲しいものです。
 きよべでは本場江戸染、竺仙(ちくせん)のゆかたを取り扱っております。


Q.型染めと手描きのきものとはどこがどう違うのですか?
A.手描き友禅では、下描き→糸目糊で防染→豆汁をひき→色挿し→蒸し→柄に糊伏せ→地染→蒸し→水洗→湯のし→仕上げ という幾多の工程を専門家が分業して、美しいきものが完成します。
 これに対して型染めは、上記の工程で一番手間のかかる「下描き」から「柄に糊伏せ」までを「染料に防染糊を混ぜる」ことによって一工程で済ませます。また大量生産されるものになるとローラー捺染という印刷と同じ技法を使います。
 双方でどこが違うのかといえば、染め付けの深さです。型染めのきものが安っぽい印象を与えてしまうのは、繊維の表面しか染まっていないからです。
 見分け方ですが、ローラー捺染は裏が白いです。が、近年は染料も改良されているので素人には判別のつきにくいものもあります。そんなときこそ専門店のアドバイスを参考になさってください。ワケ有りの超特価品には要注意ですよ。安物買いの銭失いをせぬ為にも、普段から反物を見て触れておくとよいと思います。

Q.城端は織物の町だと聞きましたが?
A.城端だけではなく、実は砺波地方はその昔織物の一大産地だったことをご紹介しましょう。
【戸出縞】戸出は布商売で成功した町で、元々集約地だったのだが明和年間に木綿の縞織物を織り始めた。
【福野手縞】17世紀なかごろ綿花を手紡ぎして自家用の木綿織物を作っていた。加賀藩の奨励で、当時江戸で大流行だった「桟留縞(サントメ)」を織り始めた。明治時代になってから「福野絣」も織られた。
【福光麻布】歴史は古く、伝説によると8世紀末に初めて麻布を織ったという。17世紀には加賀藩の奨励もあってさかんに生産された。
【井波紬】文政年間から紬織りが始まった。手紡ぎの太糸を用い、茶褐色に染めて織り上げたもので独特の風合いを持っていたと言う。
【城端絹】いつ頃から絹織物が始まったのかはっきりしないが、天正年間(16世紀後期)頃だと言う。元禄6年の資料によれば城端の戸数は689軒だったがそのうち375軒が絹に関係していた。絽や紗は一時期全国の生産量の30%を占めた。
有名なものでこれだけあります。皆さんのお住まいになっている地域固有の織物がまだまだあるかもしれません。

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